ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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生死の掛かった取引では市場原理は働かない

過酷な労働環境で働く労働者は奴隷的であると言われることがある。だが――自分の今の職場がそこまで過酷であるかどうかはともかくとして――自分のような使い捨て用品としての労働者は、そうであるが故に奴隷的であるとは言えない。というのも、奴隷というのは主人の財産でもあるからだ。だから主人はその価値を毀損しないよう計らう必要性もでてきたりする。それは例えば、継続的に使い続けるためのカメラと使い捨てカメラの扱いの関係を見れば分かり易いだろう。つまり、自分のような人間はある意味奴隷以下の存在であると言える。
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これに対し、企業側からの法に抵触する形での労働の強要やパワハラなどに何ら抵抗を示すこともなく、唯々諾々と従ってしまう会社員は「社畜」と呼ばれ、揶揄されたり非難されたりする。何故それが非難されることになるかと言えば、そういう者がいることで市場原理が働かなくなるからだ。

市場原理には、経済効率性を高めると同時に、労働者の質と労働環境・条件の質の改善もまた期待されている。それによってより多くの人々の生活もまた改善されるに違いない――この蓋然性が、極力市場に委ねるべきである、という主張の大儀になっている。ところが「社畜」が一定数存在すると、企業は現状の労働環境・条件を改善する必要がなくなってしまうため、その質の改善は阻害されてしまう。ルール違反が野放しにされ、市場は健全なものではなくなってしまう。それ故そのような存在は、侮蔑の意味をこめて「社畜」と呼ばれたりするわけだ。

だがその攻撃が当の本人達に効いているかと言えば、それは疑問だ。大抵そういう者達は「社畜」と呼ばれても開き直っているし、むしろ何の関係もない話題に態々それを持ち出してきて誇らしげにしている者さえいる。何故「社畜」がそのような鎖自慢をしたがるのかと言えば、彼らはそれ以下のポジションが存在することを知っているからだ。そして自らのそのポジションは多少我慢さえすれば持続可能である(或いは次の飼い主が見つかる)と考えているのだろう。だから幾ら「社畜」呼ばわりされても動じない。

この問題の根っこには、「社畜」が潤沢に供給されるからこそ労働環境・条件が改善されないのと同じく、自分のような使い捨て用品が潤沢に供給されるからこそ、「社畜」はそのポジションを維持し、誇り続けることができるという問題がある。

もちろん、それらが潤沢に供給されるのにはそれなりの理由がある。そこには生死がかかっているため、取引における選択の余地がなくなり、死の恐怖に後押しされる形でそれらは潤沢に供給されることになるのだ。畢竟、労働市場におけるそれのように、生死がかかっている取引に関しては、一方的関係性が形作られ対等で自由な取引が出来なくなるため、市場原理は働かなくなる。さらに言えば、労働市場に関しては、実際にそこで働いてみるまでその内容が分からないという情報の不透明さの問題もある。そんな状況でまともな市場が形作られるはずもないだろう。ましてや「職を選り好みするな」「直ぐに離職するな」などという(市場の自由を真正面から否定する)主張が常識的なものと認識されている社会では尚更だ。

要するに、――そもそも市場原理などというものに過剰な期待を抱くこと自体が間違いではないのか、ということもあるが――もし仮に市場原理を働かせようとすれば、まず取引の際に死の恐怖が付きまとい自由な選択ができなくなるような状況を改善しなければならない。そして実際にそこでどのような労働をするのかという情報が徹底的に開示されていなければならない。さらに言えば、市場のルールを無視し続けるプレイヤーには速やかに退場してもらわねばならない。そういった環境作りを諦め蔑ろにすることは、市場原理を捨てることに他ならない。だが、実際にそういう環境を実現させることに熱心な人間は一体どれほどいるだろうか?

そういったことを踏まえて現状を見てみると、「市場原理」は言葉では正当性の根拠としてよく持ち出されるものの、実のところ殆ど誰もそれを重んじようとする者などいないことが分かる。結局、重んじられているのは市場の機能ではなく、その言葉が持つイメージの政治的効用であり、それを利用しようとする者が大勢いるだけなのだ。

 ***

ただし経済効率性という面だけに注目すれば、もう少し違ったものも見えてくる。合理性や効率性という言葉は、「誰の何の目的にとって」という前提条件によって中身がガラっと変わってくるということに十分留意しなければならない。その上で、実際に人を使い捨てにしたり無茶なこき使い方をした方が誰かの何らかの目的にとって合理的で効率的である(それによって守られるポジションが増える)場合が存在するのもまた事実だ。

だが市場におけるそのような機能だけが重んじられるのであれば、市場とは所詮そういうものであるという情報――つまり特定の誰かの目的を達成するために他の誰かが割を食うのはやむなし――がはっきりと明示されていなければならない。そしてそれは市場原理をただの利害対立に変貌せしめ、社会的共有物としての性質を排斥することになるだろう。

そもそも経済効率性を高めることが何故良いことであるとされるのかと言えば、それによってより大勢の人達の生活が改善されるはずで、そこに自分もまた含まれるのではないか、と期待されるからだ。それが期待できず、単に割を食うだけであると認識した側の者にとっては、市場原理はただマイナスをもたらすだけのものでしかなくなってしまう。そうなれば市場を重んじる故はなくなってしまう。

問題は、自らの労働環境や条件が多少悪くなろうと、他の者が、或いは自分が使い捨てにされようと、企業にとっての経済効率性(というか利益)を重んじることで自分の今のポジションを維持することができるのであればそれでいい、と考える者が大勢いるであろうことだ。そしてこの考え方は、彼らの立場からすれば必ずしも間違いであるとは言えない。結果として、このような経済効率性を追求することだけが市場に求められることになる。

この場合、労使における対立軸はもはや経営者vs労働者、正規vs非正規という単純なものではなくなる。これは政治の場における制度設計においても言える。経営者が賛同しているだけではその政策は通らないわけだから。よくある「労働者同士がいがみ合えば経営者が高笑いするだけ」というようなセリフがどこか陳腐で時代遅れなものに聞こえてしまうのは、こういった状況が既に成立してしまっているからだ。

コメント

しっかりかいてますね。プロフィールが無いので想像ですが、僕とにてるね、発想が。自分で考えるのと勉強するのではまったく違うから。Sampletank のオーソライゼイションの登録窓口が出無いのでここにきました。教えてネット!
僕はすべての思想哲学、人間が文化だと思ってるものは感覚によって作られる、と思ってます。当たり前のようでもありますが、正解は無いと言う事です。と言うかどうでも言いと言うか、生き物の本能が肥大化して妄想化して、生き物の輝きを失っている。と考えています。

>Sampletank のオーソライゼイションの登録窓口が出無いのでここにきました。

自分がIKの製品を買った時とは色々変わっているようですね。日本語のホームページが出来たのはよいが、レイアウトなどは前の方が分かり易かったように思います。以下にオーソライズまでの手順を書いておきます。

ユーザー登録を済ませたら、IKのページの一番上に「ログイン」と表示されている部分をクリックし、ユーザー・ネームとパスワードを入力してログインする(以前はコピペでよかったのに今はできなくなったようです)。すると「ログイン」が「ようこそ???(ユーザーネーム)」に変わるので、そこをクリックし、「User Areaに入る」を選択。そこで一覧から「My Products(登録製品)」をクリック。購入した製品の下に表示されている「Authorizations」をクリックし、「Authorization Manager」のリンクをクリック。するとオーサライズ・マネージャー&日本語マニュアルのダウンロードページが表示されるので、後はそれらをダウンロードし、マニュアルに従って処理すればオーソライズできるはずです。

>僕はすべての思想哲学、人間が文化だと思ってるものは感覚によって作られる、と思ってます。当たり前のようでもありますが、正解は無いと言う事です。

まあそれらが「意志の力」によって構築されているわけではないことは確かです(意識は状況や状態の産物なので)。そもそも、其々で観測地点が異なるのはもちろんのこと、観測機自体が既に異なっているのだから、「道徳的正解」に無数の観測結果が生まれるのは当然ですよね。

しかし逆に言えば、だからこそ感覚以外の何らかの共有物が必要になってくるのだと思います。何故なら、何の理念も原理も共有しない集団は、結果として感覚原理主義にならざるを得ないからです。そして感覚的趨勢による観測が普遍化され、真理化されてしまう。そうなるともう、感覚的趨勢から外れている者はどうしようもなくなってしまう。

>生き物の本能が肥大化して妄想化して、生き物の輝きを失っている。

「正解は無い」以上、どのような状態が「生き物の輝き」なのかもまた一律化することはできませんが、確かに、生まれること、長生きすること、子孫を残すこと自体を第一義的なものだと定義付け、それらに同調してしまうと、本当に下らない人生になってしまうような気がします。実際、それらを重んじる人は、それ以外の何かにとってそれらが必要だから、ということでそれらを重んじているはずです。

まあこういうことを考え出すと、結局「生まれないに越したことはない」という結論に達してしまったりするんですけどね。

リターン期待して無かったんで、感激です。オーソライズ出来ました。でも鍵盤の色が変わっても動かない。サンプルの変更が出来ない。あきらめた。ソフトばっかいじってると指が動かなくなるので、まあこの辺が僕の限度と理解しました。!感覚原理主義、面白い発想ですね。好きな事だけ気持ちの良い事だけする。それがまた人間複雑で、気持ちの良い事だけするとそうではなくなる、疲れるので動かないでいると、動けなくなる。使うと健康になる。でもお金を使うと無くなる。
寒いので暖房の中だけで暮らすと、そこでしか生きられなくなる。ちょっとの気温の変化で寒くなる。不安を取っても幸せにはならない。金があっても幸せにはならない。
それ以外の何かにとってそれらが必要だから・・
と言う答えはこんな中に入っているのかな・・。
僕は自我が無いと思われている人間以外の生物も人間も、「生まれないに越したことはない」の、答えを持っていると思うよ。
どうもありがとう。またコメントします。

金と「幸せ」について

閉めに入っているところ申し訳ないですが、ちょっと気になったので。

>金があっても幸せにはならない。

金があっても幸せになれるとは限らない、というのはその通りですが、金が無くても幸せになれる人間は稀だと思いますよ。少なくとも金は、生まれてきてしまった苦痛や不安を和らげるのには大いに役立ちます。

そもそも「幸せ」というものが何なのか自分には分かりませんし、恐らくそれは多くの人にとっても同じことなのではないでしょうか?というのも、「幸せ」というのはその者が感覚的に満足のいかない状態に置かれた時(或いは他人のそのような状況を目の当たりにした時)、その対比として浮き上がってくる曖昧な概念でしかないからです。つまり「幸せ」というのは、確固たる形でそれそのものとして存在するものではない。

だとすると、「幸せ」そのものを目指すのは「存在しないもの」を捜し求めるのと同じことになります。そしてそれを目的とするのは余り良い結果を生まないように思います。実際昨今でも、笑顔や明るさ、不平不満を言わないポジティブさ、「途上国の子供の目の輝き」などが様々な場所で求められたりするわけですが、「皆が幸せに」が社会的に達成すべき目標になってしまうと、そこで指標として定められた「幸せ」が成立している状態を外形的にはっきりとした形で演じることが求められ、それができない者は「幸せを阻害する者」として罰せられたり排除されたりするような状況が形成されてしまう恐れがあります。というか、既にそのような状況はいたるところで成立しているのではないでしょうか。まあだから自分は「幸せ」そのものに固執するのは余り良いことだとは思えないのです。

少なくとも自分は、今後もこの人生に何の意義も見出せないだろうし、それはただただ苦痛なだけのものでしかありません。だけど死ぬのも怖いし嫌。そういう者にとってこの世で価値があるのは、生や死の苦痛や不安を和らげるてくれるものだけです。そしてそれには金が必要になってくる。そもそも金があればこんなクソな環境や条件で働く必要もないわけですからね。もちろんハイパーインフレになれば金も役に立たなくなるので、「信用できるのは金だけ」なんてこともないですが、人間として現代に生まれてきてしまった以上、やはり金は重要ですよ。ただ問題は、大抵の場合、その金を手に入れるのにまた大きな苦痛や不安を支払うことが必要になってくるということなのですが…。

どーも、マリオです。閉めてないですから大丈夫です。おっしゃるとおり、僕もそう思います。ちょっと私のは概念が違います、普通は幸せの反対は不幸ですが、僕のは幸せの反対は無いんです。言葉が無いので幸せと使ってしまいますが、僕流に言いますと、
 絶対的他者を感じる。と言う事です。人間は常に私達と言う世界で生きていますが、その中で葛藤するわけです、分かってほしいとかH ッチしたいとか、。相手に求める事で社会や人間と言う概念が生まれるんです。でもどうしようもない世界にぶつかるわけです、死とか理解してもらえないとか、欲望ですね。その中で、自分の中で感じるわけです。自分は自分の中だけでしか生きられない。
まったく関われない世界がある。絶望です。私が死ぬと思った瞬間でした。
でも、おかしなことにすごい喜びを感じたのです。開放です。すべての呪縛からの開放です。・・
宗教的なんですが、人間が作った教義・戒律・教団などは信じません。知識・信じるものではないからです。僕の言う幸せは感じさせられるものなのでっす。
返信になってませんが、よく見ると上にポジティブアレルギーと書いてあるではありませんか。それをそのままいただくと言う事かな・・。共感します。

生まれてきたせいで死ななければならない

>自分は自分の中だけでしか生きられない。

そうですね。「幸せ」な人はこのように(知ってはいても)感じていないか、もしくは「絶対的他者」の不在で言い表されるような欠落感を埋め合わせる何かを感じ取っているのかもしれません。

>おかしなことにすごい喜びを感じたのです。開放です。すべての呪縛からの開放です。

自分の場合は、こういった考えは理屈では考えていたことはあったのですが、実際に死の可能性が現実的なものとして近づいて来れば来るほどそれは遠ざかって行きましたね。元々タナトフォビアっぽくて、幼い頃から度々死について考えては怖くなって泣いていたくらいですし。

生きたくはないが死にたくもない。死は忌まわしき生の一部というところでしょうか。生まれてきたせいで生と死の苦しみや恐怖を味あわなければならない。確かにしねばそれからか逃れられるわけですが、死んだからといって「逃れられた状況(開放)」を手に入れることはできない。これから逃れられるのであろう、という認識は手に入れられる可能性がありますが。

それに、自分は死には何か途方も無い悔しさも感じる。全ての人間が納得の行くような人生を送ることができるユートピアが存在しないという事実は、人間社会を再生産するためには、自分のような人間を今後も生み出し続けなければならないということをも意味する。ただ「普通の人達」から使い捨ての労働者として機能することだけを求められ、それが叶わないと知るや、今度は言葉や状況によって死を突きつけられる、そういう存在が不可欠になってくる。

要するに、働いて生きながらえるにせよ死ぬにせよ、どのみちそういう(人間社会の再生産を望む「普通の」)人達の思惑通りに動くことになる。それでも何か生まれてきた意義の一つでも見つけられればよいのですが、それも叶いそうにない。そして死ぬ時は、当然その自分の人生の意味が今後も永遠に変わらないことを認識しながら死ぬことになる。死んだ後にその事実や認識が変更されることはありえませんから。つまり、その「永遠」を抱えた状態で死ななければならない。そういうことを考えると、実際に死ぬ間際にそれを肯定的に受け入れることは、自分にとっては中々難しいかもしれません。せめてその時くらいはポジティブになれればいいのですが。

1度書いたけど消えてしまった残念!気おとり直してもう1度。このブログ面白いですね、内容がまったく違うものが書いてある。でも音楽どんなもの作ってているのかまったく書いてありませんね!聞いてみたいです!私は本名なのでyoutube/facebookブログもしてます、よろしかったらチェックどうぞ!
ネットの世界、皆さんポジティブ=成功、感謝する・マイナスを取れば幸せ・夢はかなう、私は叫びたい(そんな世界あるはず無いだろーー!)と、でも気の小さい私は炎上が怖くて言えません(笑い)。
死ぬとき何を考えたと思います?税金ですよ?Hのビデオどれに処分してもらおうと思った事ですよ。自分が死んでしまえばどうでもいいことだったんですね。
それともう一つ世間様では絶対理解してもらえないんですが、
人間は知識をつけたために、自分が死んだ後もこの世界が続いていくと信じている。と言う事です。今生きているこの世界は自分が(5感)作っていると言うものです。もし目も耳も脳もなかったら、この世界は無い。違う世界です。どうですか?そう思いませんか?そうでもやっぱ世界は変わりませんか?

あああ!忘れた、サンプラー・フリーのやつで、音源付き、和音が自動で付けられるの知っていますか7とかDimを。音源少なくてもOK音質もベタでいいです。
かってですが、もし知っておられたら教えてください。マリオ書きました。

>サンプラー・フリーのやつで、音源付き、和音が自動で付けられるの知っていますか7とかDimを。

コード入力支援と言えば、「ChordSpace」や「Genkhord」くらいしか知らないですね。コード進行の作成を機械にやってもらうと曲を作ったような気にならないので、そっち方面は全く興味の対象外でした。どちらにせよ、基本的には支援ソフトでMIDI情報を送り、それで音源を鳴らすというのが基本で、音源まで付いているというのは余りないかと。ちなみに、DAWではSSWがそっち方面を得意分野としています。でも最近の有料DAWは、進行はともかく、コードを指定すればそれを入力してくれるくらいの機能は大抵持っていると思いますよ。また、無料でもその手のソフトとして「ペンちゃんの不思議なけんばん」なんてのもあります。これはテンキーでコードの種類を切り替え、鍵盤をクリック(もしくはパソコンのキーボードで演奏)すれば、自動的にその鍵盤の音をルートとする設定コードが鳴るので、それを「MIDI Yoke」や「LoopBe1」「loopMIDI」といった仮想MIDIケーブルでDAWに繋いで記録できたりします。

>でも音楽どんなもの作ってているのかまったく書いてありませんね!

一応以下で作ったものを公開していたりします。
http://positiveallergy.blog50.fc2.com/blog-category-19.html
ただ、未だに胸を張って公開できるほどのものは作れたことはなく、実際のところ黒歴史みたいな存在になってしまっているのが現状です。

>よろしかったらチェックどうぞ

何曲か拝聴しました。ギターや三味線が弾けるんですね。私はギターの練習は結構したのですが、不器用すぎて結局何もできるようにならなかったので羨ましいです。その分鍵盤の練習でもしておけばよかったのにと思います。鍵盤ならコードが押さえられないとか、音が出ないということはないですからね。ちゃんと弾けなくても入力に役立ちますし。しかし、私も「君がいて本当にラッキー」とか言える人生を送ってみたかったw

>ポジティブ=成功、感謝する・マイナスを取れば幸せ・夢はかなう

本当に心からそれを信じていれば、一々他人にそんなことを言う必要などないんです。(もちろん、中には本当にそれを信じている人もいるでしょうが)多くの人々が何故他人にそういうことを言うかと言えば、他人がそれに同意し、信じているところ(信じさせたところ)を見ることでそのもっともらしさを確認し、自分が安心したいからでしょう。私の成功の原因は私のポジティブさの手柄だ、或いはポジティブでいれば必ず人生は報われるはずだ、と。だからそれを否定するということは、「私は私の努力によって成功を手に入れた、それ故に私には存在意義がある」というような世界観やアイデンティティを否定することになったり、どんなにポジティブに振舞っていても実はこのまま報われることはないんじゃないか、という疑念を膨らませることになり、その人達を不安に陥れることになる。だから彼らはそれを否定すると怒るわけですね。しかし逆に言えば、ポジティブになることさえ許されない状況で苦しんでいる人間からすれば、そういう布教活動自体が既に拷問以外の何ものでもないわけですが。

>自分が死んでしまえばどうでもいいことだったんですね。

死んだ後はどうでもいいんですが、死ぬ間際(死に方)のことを考えると、それが気になる人はやはり身辺整理はしておいた方がいいかもしれませんね。余計な不安は減らせるだけ減らしておいた方がいいですから。自分ももうそろそろ潮時かなと思った時があったのですが、その時真っ先に考えたのは身辺整理のことでした。

>今生きているこの世界は自分が(5感)作っていると言うものです。

「私」は自分で好き勝手にカスタマイズすることはできない。「私」のパーツは自分が作ったわけではない。自分が「私」の資質を選んで生まれてきたわけではない。そしてその個体の現状を決定付けるもう一つの要因である環境は、自分で自由にコントロールすることはできない。それらは全て自分以外のものによって規定され、制限されているのであり、それによって「私」はこの形で存在している。そうである以上、仮に「私」やそれが持つ世界観が変わっても、それは自分の力で変えた(作った)とは言えないでしょう。変わった「私」を自分が変えたと錯覚することは往々にしてあるでしょうけど。自意識というのはそういうものですので。確かに「私」が認識する世界は唯一無二のものです。が、それとそれが持つ認識や知覚(及びそれを規定し制限する環境・資質)を自由に作り変えることが出来るというのは全く別のことですよね。

ポジアレさんの曲、いっぱい聞きました。かっこいいですね!。僕はあのシーケンサーにカーソルを置いてコピーしたりするのが面倒で、面倒で、唄う気がなくなってしまいます。結局楽器を弾いたほうが楽ですけど、ミディ鍵盤がないので、(楽器っばっか増えて鍵盤捨てました)小さいのの買おうか悩んでます。
僕は母親を2回ほど首絞めました。殺さなかったですよ。
妄想では人間を全員、地球の人間を百回ほど殺しました。今ではもう少し進化して、すべての地球人の頭の毛をむしりとると言う妄想を抱いております。僕はもう少して禿げそうなので。
今は医学科学が進歩したそうで、気分が優れない、ネガティブだと、病院に行くとすぐ薬をくれて、朝元気よく起きれる薬があるそうです。SSRIは副作用も少ないそうです。アメリカでは130万の子供が、多動性障害で30人に一人がリタリン精神安定剤を飲んでいるそうです。
すごい世界になりました。ネガティブは病気か異常者になってしまいそうです。
僕は人間の細胞一つ一つが意志を持ち、統合されたものが大脳で集計され
一人の意思となっている。と思っています。
事実移植されると意思が変わるそうです。細胞は短いもので二日で死に新たな細胞と入れ替わります。体全体ではざっとですが1月経つと、(神経細胞などを除くと)新しい意細胞に代わるそうです。
仏教的に過去の自分と今の自分はまったく違うと教えていますが、本当にそうだと思います。自分は徹底的に今しか無い。自分は未来にも無い。
明日は来るかもしれませんが、明日はもう違う人間なのです。と思うのです。
社会的には責任が付きまとうかもしれませんが・・。
そう思うと一時的かもしれませんが。開放されてます。
理解じゃなくて感覚ですけど。
ネガティブ大賛成!そのままそのまま受ける。受け取る。明日は分からない。!

>妄想では人間を全員、地球の人間を百回ほど殺しました。

そういえば私も、人ごみの中を歩く時、斬り付けられると末代まで呪われる呪いの刀で、すれ違う人間を全員ぶった切って行ってましたからね。もちろん頭の中でですが。しかしこういう妄想を抱いている人間が常に一定数いるであろうことを考えると、「思考は現実化する」「思いは必ず叶う」などという考えが事実だったとしたら、世の中大変なことになりますな。

>事実移植されると意思が変わるそうです。

その個体を形成する条件が変わる以上、その条件によって規定される認識が変わるのは何の不思議もないことだと思います。

>僕は人間の細胞一つ一つが意志を持ち

むしろ私は、そもそも「意志」というものは実際には存在しないと考えています。ただ、細胞にしても何にしても、何らかのベクトルを持っているのは確かでしょう。そしてそれらのベクトルの組み合わせや集積によってその個体は、何かを行おうとしたり、継続しようとしたり、或いは押しとどめようとしたりする。「意志」というのは単に、それを認識した意識が、自身(或いは何らかの仮想的主体)と同一化したある特定ベクトルをそう呼び変えているだけなのではないかと。逆に、自身と同一化されないベクトルは「意志」とは呼ばれない。実際、「病気になろうとする意志」を持っている人なんて余りいませんよね。でも人は病気になる。ところが、病気になったことを、これは自らの意志によるものだ、とは普通言わない。要するに「意志」は、概念的で実態を持たない演出上の言葉なのです。

そしてこの事実の認識は、非常に重要なことだと思っています。何故なら、もしその個体が持つ状態が、その個体の意志によって形成されているとすれば、困窮している人間は自ら望んでそのような状態になった、ということになるからです。そしてその全てはその者の責任だということになる。これが所謂自己責任という奴です。

もちろん、この理論はあくまで方便です。「意志」によるユートピアなど存在しませんし、何が「意志」によるものかは都合よく取捨選択されているわけですから。実際は単に、人気のある者には手助けと褒美を、不人気者には蔑みと罰を、ということでしかありません。そしてこの方便を暴くには、その根本にある「自由意志による自己決定」が虚構であるということを突きつける他ないのです。実は、「ポジティブ・アレルギー」の「アレルギー」には、「(一般的意味としての)意志ではどうにもならない(好きでそうなっているのではない)」という意味が込められていたりするのです。

とはいえ、私も便宜上「意志」や「自律」という言葉を使うこともありますし、それがどうでもよいと言っているわけではありません。何故なら、「意志」と様態が乖離している状態は、その者にとって決して望ましいものであるとは言えないであろうからです。その意味で「意志」を尊重するのは重要なことではあります。

>ネガティブ大賛成!そのままそのまま受ける。

上記したように、私は別にネガティブ・フィリアではないのです。ただ、ポジティブになれないような状態がそこに存在しているのに、無理にポジティブになれ、なれるはずだ、お前が今苦しんでいるのはポジティブになろうとしないからだ、その意志が足りないからだ、というような考えが気に入らないのです。そもそも、ポジティブ人間はネガティブを非難するわけですが、自分の気に入らない態度を取る人間がいるのは当然のことであり、それが現実でしょう。結局彼らは自分が気に入らない他人の態度をネガティブと称し、それ否定しているだけなのです。つまり、特定の様式のみを「ポジティブ」として特権化し称揚する一方、そこから外れたものを「ネガティブ」とし、蔑んでいる。多くの「ポジティブ」が醜悪なのは、このような構造の上にそれが成り立っているからです。

逆に言えば、「ネガティブ大賛成!そのままそのまま受ける」というのは凄くポジティブな態度であるとも言えるわけです。「幸福」の話もそうでしたが、ここら辺の、誰かがある言葉を使用した時、その者がそこに何を込めているのか、というのは中々面倒な問題ではありますね。大抵の場合、そこに政治性が伴っていたりするわけですし。

なななかなか深い!洞察、恐れ入ります。
僕が意思というのは、人間の意志とか言うものではなく、ベクトル?エネルギーに近いかな。細胞の、と言う意味は大腸菌とゾウリムシ、アメーバーみたいなものの動きの事です。方向が無い、分裂するエネルギーみたいなもの。
しかし、普通に意思というと
たいていの場合政治的なものが漂ったりしてますね。
言葉・知識はもともとそういうもを持っている、文化はそれでしかない。ともいえるのかもしれません。だから音楽・芸術に開放感を持つのかもしれません。
実際、私が今ここに書き込みをしてますが、どうしても雑多なメッセージが入ってしまうんですね。ほとんど考えてないんですが、(すみません^^!)
普通、人は共感を得たい。理解してもらいたい。居心地のいいところにしたいとメーっセージを出します。もしくは知りたい、違ったものを得たいと。
そこで、僕はポジアレさんをいろいろ探っていたわけです。何考えているのかと・・。
僕はいろいろあって、45歳ぐらいまで笑う事ができなかったんです。45過ぎてなんとか笑う事ができるようになったんですが、うまく腹筋と笑いの大きな呼吸のタイミングが合わなくて、苦しくて苦しくて、人はどうやって笑っているのか不思議でしょうがありませんでした。今は上手に笑えるようになりましたが。
でも今度は、悲しくてもうまく泣けない。どうしたら泣けるのか研究してるところです。
話がちゃらんぽらんになってしまいました。明日能登に行きます。雪をバックに三味線動画取るつもりでしたが、さっき電話したら雪まったく無いそうです。残念。来月アフリカ行きます。ではまたネット、マリオ書きました。







私が市場原理至上主義者達の言説をおかしいと感じる点は、彼らが動物的な「弱肉強食」「優勝劣敗」(←本当に自然界がそうなっているかはともかく)を称揚するのに、彼らの富を動物的行為(?)である暴力や掠め取りによって奪うことがこの社会で許されていないというところです。
暴力が跋扈する戦国時代の方がよっぽど健全なのではないでしょうか^^

全くその通りですね。もし「弱肉強食」を肯定するならば、強盗、恐喝、詐欺、殺人何でもOKでなければおかしいのですが、むしろ彼らはそういう「弱肉強食」行為を行った者には厳罰で挑むよう主張するのが一般的パターンではないでしょうか。少なくとも何をされても「弱肉強食」だから仕方がない、と言う人はいないでしょう。そしてそのような「弱肉強食」行為を抑止しようと何らかの防止策を設けることは、即ち彼らが批判して止まない「規制」そのものだったりもします。本当に「弱肉強食」社会ならば、取引もまともに出来ませんからね。

要するに、市場とは規制があって初めて成立するものであり、市場原理至上主義者達が言う「自由か規制か」という命題は悪質なミスリードなんですよね。何故ならそれは、本来ならどちらも「どのような市場を目指してそのためにどのようなルール(規制)にすべきか」という主張を行っているに過ぎないわけですから。そしてそこに設けられたルールによって市場は如何様にも変容する。

そもそも市場原理・自由主義の妥当性は、極端な市場規制や行き過ぎた計画経済を行えば経済が停滞して国全体が貧乏になり、それによって不幸になる人が増える、それよりもある程度市場に自由にやらしておいた方が経済も潤い、多くの人にとって良い結果になる、そしてその良い結果の恩恵を自分も受けることができるのではないか、という期待に担保されているわけであって、その良い結果という「成果」や期待を生み出せなければ当然その場における市場の運用のされ方は否定されてしかるべきなんですよね。

そしてそのシステム上で上手く生きていけない人や、そこから切り離された人が増えれば増えるほど様々な社会問題が起こってくることになり、それによって市場の健全性を保つことも難しくなっていく。元々市場を維持するためには莫大なコストが掛かる(そしてそれは国家の介入が不可欠。その意味で資本主義は常に社会主義的側面を持っている)わけですが、そうなれば尚更コストが掛かることになる。

市場原理至上主義者の言う、今の環境で上手くやれない者は酷い目にあって当然、という一般的言説は実のところ、問題があるからと言って今のこの市場の運用方法を変えられて溜まるか、という「既得権益」的なものであったり、その運用方法を維持したいがそれによって生じてくる問題にはコストを払いたくないので精神論で断罪、というないものねだりだったりするわけです。

それ以前に、市場原理はあくまで力学的なものでしかないのに、それを「こうあるべき姿」として祭り上げること自体おかしな話です。それは市場原理主義ですらありません。

もはや自分にとってこの社会がよいものになることはないですが、せめてこういった自称市場原理至上主義者達のボケがちゃんとボケとして認識され、ツッコミが入る程度の世の中くらいにはなって欲しいですね。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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