ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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入力条件が変われば吐き出し結果が変わるのは当然

佐村河内問題で、曲そのものは変わらないのに、曲に付随する情報の嘘が発覚したからといってその評価が変わるのはおかしい、というような主張をよく見かける。だがそれは何もおかしなことではなく、むしろ当たり前のことであると言えるだろう。
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例えば、数値の羅列を入力するとそれを受けて何らかの結果を吐き出すプログラムがあるとしよう。そこに例の「HIROSHIMA」を数値化して入力する。生演奏だったならともかく、それがCDなどのデジタル録音だった場合、それは基本的に同じ数値に変換され、それを受け取ったプログラムは同じ結果を返すだろう。

「曲そのものは変わらないのにそれに対する評価が変わるのはおかしい」に代表される、作品が作られた背景やそれを作った者の人格といった作品にまつわる情報と作品そのものは分けて考えるべきだ、という主張は、このような状況を目指すべきだと言っているわけだ。

だが問題は、「人間」という「プログラム」は音楽だけを独立して取り込むことができない、というところにある。人間は生まれた時から、外部から様々な分野の情報を一緒にまとめて取り込み続けている。人間の内部に特定の分野専用の部屋があり、そこにその分野に関する情報だけを独立して取り込み、閉じ込めているわけではない。其々の分野の情報はどんどん混ざり合い、お互いに影響を及ぼし合い、そしてそれらがまた「プログラム」自体をどんどん書き換えていく。それが人間というものだろう。

つまり、曲に付随する情報が変わるということは、入力情報そのものが変更されることを意味する。そしてその変更はプログラム本体の状態にまで影響を及ぼす可能性がある。だからそれらが変更されれば、曲の感想や感じ方、評価といった吐き出し結果が変わるのは当然のことと言える。

そしてそれは何も、佐村河内氏の嘘がばれた後と前で曲への評価を変えた者だけに起こっているわけではない。全ての人間に起こっていることである。よってそれを嗤うならば、それは己自身を嗤っているにも等しい。

例えば、幾ら作品そのものとそれ以外の事柄は分けて考えるべきだと言ったところで、それを作ったのが自分を散々苦しめたストーカーや虐めっ子だと知ってしまったら、その作品はもうその者にとって二度と前とは同じものには戻らないだろう。

吹奏楽部だが佐村河内の大ファンだった部長死ぬほどからかった結果w

実際の例を挙げてみれば、こんな嫌がらせをされて尚、嘘の発覚前と後で曲に対して同じ感情を抱けるはずもない、ということは、誰にでも直ぐ想像が付くのではないか。そして「同じ感情を抱けるはずもない」とは即ち、曲に付随する情報の嘘が発覚したことによって曲の評価が変わらないはずがない、ということを意味する。要するに「おかしい」どころか、むしろ当たり前なのだ。

今回の騒動では、「音楽よりも物語を聴いていた」というようなことが盛んに言われた。だが物語などなくとも、曲に関する理論的解説を聞いただけで、或いは体調が変わっただけで、その曲の聴き方や聞こえ方は変わってしまうだろう。DTMをやっている人なら、DAWやVSTにおいてGUI(装飾)が如何に重要かということ、そしてそれが道具自体の評価さえ変えてしまう程の力を持っていることを知っているだろう。人間の感じ方や評価の仕方は、元々それほど脆く危ういものなのだ。

こういったことは、社会的観点から見ても言える。例えば書籍におけるベストセラーなどは、大抵は数年経てばブックオフの百円コーナー行きだ。あれだけ皆がこぞって買い求め、熱中したはずのものが、数年後には誰も見向きもしなくなる。作品の中身は何も変わっていないのにもかかわらずだ。この例一つ取っても、中身が変わらないのに評価が変わるのはおかしい、という考えがどれほど現実離れしたものであるかが分かるだろう。

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もちろん、作品への独立的評価の困難性を理解した上で、それでも尚、それをしようとするのは別に悪いことではない。

しかし、音楽はそれが非常に困難な部類に入ると言える。というのも、幾ら曲を緻密に解析し、その構造の絶妙さや稚拙さを見出してみても、それはあくまで構造の絶妙さや稚拙さでしかなく、それイコール良い曲/悪い曲ということにはならないからだ。幾ら構造が絶妙でも下らなく聞こえるものもあれば、幾ら稚拙な手法で成り立っていても多くの者が良いと感じるものもあるだろう。

よって曲の良し悪しという評価に関しては、結局その者がその時それを聴いてどう感じるか、という部分に委ねられてしまう。そしてその感じ方は、曲以外の要素(体調や気分、知識、経験など)に常に左右される。

逆に言えば、構造部分に関しては作品そのものの独立した評価を下しやすいと言えるが、それも大抵はエポックメイキングという概念に阻害される(作品の構造そのものを絶対評価するなら、手法や技法の先駆性はむしろ無視されるべき)。

その点、ロジックそのものが「作品」に相当する言論は、音楽などにくらべ独立した評価が下しやすいジャンルであると言えるだろう。しかしながらそのようなジャンルにおいてでさえ、大抵は何を言ったかより誰が言ったか(属性)が議論の焦点になってしまう。作品そのものとそれにまつわる情報を切り分けて評価を行うというのは、それほど困難なことなのだ。

コメント

最近の人で、ハンデを負った音楽家というと、ピアニストの辻井伸行さん(作曲家ではないですが)が有名でしょうか。
彼のピアノも、私のような素人が聴けばほかのピアニストと大差なく聴こえてしまいますが、全盲という属性が、聴こえ方を変えさせているように感じます。


クラシックのオリコンチャートで女子高生のブラスバンドが一位を記録したそうです。

CDになるくらいなので彼女たちは演奏者として上手いのでしょうが、やはり学生です。音楽というものが、それそのものよりかは、それを演奏したり作ったりする人間の属性を以て評価されているのだな、と思った次第です。

しかし、“女子高生”という属性が、CDを買ったリスナーにどういった付加価値を以て受け入れられているのかを考えるのは、どうにも気持ち悪くてできませんが。まぁ、甲子園みたいなものですかね。

自分の場合は、障害を乗り越えて…みたいなのはそれだけでスルーしてしまう傾向があったり。辻井氏については、私は演奏の良し悪しを判断する能力がないのでなんとも言えませんが、他のプロ演奏家と大差ないなら結構な腕前なのではないでしょうか。そもそも、バカテクやキワモノ以外で明白な際立ちを聞かせること自体難しいですし。

>全盲という属性が、聴こえ方を変えさせているように感じます。

スポーツ競技なんかにしても、ただ自国出身というだけでその選手を特別視してしまったりする人が殆どなわけで、それを考えるとそういう反応は極めて普通のことかと。良いか悪いかはともかく。

>一位を記録したそうです。

「発売第1週で2267枚を売り上げ」ですか。調べてみると、どうも「笑ってこらえて」というテレビ番組の吹奏楽部密着コーナー(?)で、この高校の特集をやっていたみたいですね。(この高校の指導者はどういう方針で指導しているのか知りませんが)大抵は怒号や罵倒が飛び交い、最後には感動して抱き合い涙を流すという、どこかの自己啓発セミナーや地獄の研修さながらの光景が繰り広げられる部活動に密着したコーナーで、日体大の集団行動(マスゲーム)と並んで私の大嫌いな番組です。

まあそれはどうでもいいのですが、恐らくこういうのを買う人は、その番組を見てファンになった人や、現役の吹奏楽部員かその経験者なんじゃないかと思います。日本に吹奏楽部員だった人がどれくらいいるのかはよくわかりませんが、その集団の中で話題になり、尚且つテレビの力も借りてこの結果だとすると、大した枚数ではないようにも思えます。

>やはり学生です。

そもそもプロのブラスバンド自体余りないと思いますし、このジャンルはどちらかと言えば同じアマチュア演奏家の演奏を聴くのが醍醐味だと思うので、そこは仕方がないのではないかと(だから吹奏楽経験のないクラシックファンの殆どはブラスバンドを聴かないし、ブラバンなんかクラシックじゃないという人も多い)。

>甲子園みたいなものですかね。

女子高生なのに凄い、みたいに思う人は多かったのかもしれません。この商品においてJKお散歩的な付加価値がどれくらいの力を発揮したかはちょっと分からないですね。

「ベニスの商人」を上演するにあたり、ユダヤ人シャイロックは
ヒールとして扱われます
しかし、すじがきはそのままにシャイロックへ同情が向く演出をし
全く印象の違う劇に仕立てた演出家がいたそうです

表向きの騒ぎに終始せず、真贋って?主観とは何?を問うような
ドラマなどを製作することにより、彼を世に紹介したメディアは何かを
背負うことができるのではないかと思います

佐村河内役を豊川悦司(又はイケメンポジションの役者)に振り
才能が無いことは重々承知で、それでも自分を表現せざるを得ない
矛盾と苦悩に満ちた人物として描いたら、どうなるのでしょう?

障害者として公的支援を受けていたことは法的にアウトなので
実現は難しいと思いますが


>ピアニストの辻井伸行さん

大江光さんや辻井さんの親の立場から、ハンデを負った子を
何とか生きていけるようにしなければと考えた結果なのでしょう

作品や演奏の評価なのか、応援したいという感情なのか
観客はそれなりに自覚しているような気がします
後付けの理由でもかまいませんし



>真贋って?主観とは何?を問うような

実はスキャンダルは全てデマで、佐村河内氏は本当に全聾で曲も全て自分で作っていた、という超展開があれば面白いんですけどね。佐村河内騒動はそれ自体を作品として見ると、「真贋って?主観とは何?」を問う力を十分内包していると思うのですが、そのあやふやさが一部の愚か者だけに特有のものとして捉えられてしまい勝ちなのがネックですね。

(法的なことはおいておくとして)佐村河内氏の振る舞いに関してもまた、一部の愚か者だけに特有のものとして捉えられているところがありますが、これもよく考えるとそうではないんですよね。

例えば就活の面接では志望動機を問われます。実際は志望動機なんて一部の技能職を除いては基本的に金(生活)のためでしかないわけですが、馬鹿正直にそんなことを言う人間はその場では悪に等しく、即斬ということになるでしょう。だから皆、様々な形で金のためじゃないんです、ということをアピールしなければならない。

佐村河内氏が皆が喜ぶであろう逸話や振る舞いを提供し続けることで多くの人々から受け入れられたように、就活という場でもまた、佐村河内ばりの演技をしていかに先方に気に入られるか、という闘いが行われています。そして何らかの秀でた才能がない者ほど、よりそのための技能が問われることになるでしょう。そこで勝ち抜いた者だけが立派な社会人になれるわけです。要するに、取り分け何かに秀でた才能を持たない普通の社会人は、基本的に佐村河内的振る舞いによってその地位を確保しているといっても過言ではありません。

>何とか生きていけるようにしなければと考えた結果なのでしょう

こちらに関しては特に法的にも問題はないし、本来当人達は何も文句を言われる筋合いはないんですよね。彼らは「障害」という売り文句を嫌でも切り離すことが許されていないわけですから。もし障害を抱えていなければ、それはそれで普通のピアニストや普通のヒーリングミュージシャンとして活躍できた可能性もあるわけですし。

昔、野生の王国のような番組では、肉食獣が草食獣を襲っているシーンが映されると、肉食獣が弱いものいじめをする悪であるかのように捉えられる傾向がありました。翻って現在では、それは自然の掟であり、どちらも生きるために必死になっているだけでしかない、そこに良いも悪いもない、と捉えられるようになってきたように思います。

一方、人間社会では未だに、(例え合法であっても)ハンデを持った者が自分が持つ要素を最大限利用して生き残ろうとするだけで悪になってしまったりするんですよね。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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