菅野完氏のミソジニー原因説記事について
日本会議の名を一躍世間に知らしめ、それによって己の名も上げた菅野完氏によるこの記事は、掲載当初から大きな反響を集め、ほぼ無批判で受け入れられた。しかしこの記事で用いられた手法には問題のあるものが多い。以下、それについて一つ一つ述べていく。
【目次】
▼(1)免罪の可能性と憶測に基づく私刑の誘導
▼(2)自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃
▼(3)飴と鞭を背後に忍ばせた二分法
▼(4)基本的人権(個人の尊重)問題の対立化
▼(5)強さの理由
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▼(1)免罪の可能性と憶測に基づく私刑の誘導
しかし菅野氏が攻撃ターゲットとする左派系メディアとやらは、かねてから男女平等を訴えてきたため、日本会議に親和性のあるような人達から散々「フェミ」云々と言われ叩かれてきたのではないか。夫婦別姓という選択肢があることを菅野氏よりずっと早くから訴えてきたのが彼らではなかったか。そしてもしその記者が所属する出版社やその者自身がこれまで女性や子供の権利に関する記事を書いてきたとするなら、それこそこんな説に納得できるはずはないだろう。「日本会議は、とりわけ細川内閣誕生以来、『壮大なる反対運動団体』になってるんです。曰く、『男女共同参画反対』『慰安婦報道反対』『夫婦別姓反対』『性教育反対』と。(中略)
「男女共同参画にしても、慰安婦報道にしても、夫婦別姓にしても、性教育にしても、全部、『女子供』の話です。これ、皆さん方、メディアの人々も、そしてその需要サイドである我々社会も、最もバカにする分野の話ですよね?」と念を押す。(中略)
ここまで話すると、女性記者と30代以下の記者と外国メディアの記者は本当に見事なまでに、「あああ!!目からうろこが落ちた!」という顔をされる。しかし、おっさん記者は全然気づかない。(中略)
最後まで理解しないのは、左派系メディアのおっさん記者だけでなく、週刊誌メディアの人の中にもたまにいる。前者の場合は、「いや、そんなことはない、自民党は国家神道の復活を目指しており。。。」とか明後日なことを言う。後者は、最後まで「それの何が悪いの?」って顔をしている。
週刊誌メディアの人が最後まで理解できないのは、職業柄だから仕方ないと思う。だってそういうメディアなんだから。「日本会議って『ニッポンのオッサン会議』なんすよ?」って話しても「いやー困ったな。うちはそのオッサンが客なので」って話なんでね。だから不思議なのは、左派系メディアの頑迷さ
いくら口すっぱく「右派運動って考えるのやめたらだろうでしょうね?あれは、壮大なるミソジニー運動だしマチズモ運動ですよ?」と伝えても、左の人は理解してくれない。そして最後には「だとして、だから何が問題なのか?」という。「そんなことよりも、9条ガー 国家神道がー」となる
結局これらは左派系メディアのものの見方でもオッサンのものの見方でもなく、全て菅野氏自身によるものの見方ではないのか。「慰安婦報道でさえそうですよね?慰安婦報道は、どちらのサイドからのものであれ、『論争報道』になっている。『日本の言い分が正しい。いや韓国が正しい』と。しかしこれ、完全に『女性の人権』って観点抜けてますよね?そういう報道ないですよね?」と。
今話したようことを、資料も見せ、エビデンスを見せ、連中が書いた雑誌記事などを並べてみても、40代以上の左派系メディアの人々は、「そんなことはない!!!!戦争やりたがってるんだよ!!!!」と意固地になって聞く耳を持たない。(中略)
2年前の僕ならこの理屈に気づけなかった。自分がいかにクソか、自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり、自分を変えようと、持ち金全部はたいて、カウンセリングに通い、病院に通い、専門家に助けを求めたから、自分のミソジニーを理解できた
慰安婦問題が女性の人権問題であるなんてのは大前提の話だろう。しかしそれを日韓の対立としてしか見ていなかった人間からは、その視点が恰も目新しいものであるかのように映る。
慰安婦は許されない、女性の人権侵害だとかいうけどさ ... - Yahoo!知恵袋
というか、「『女性の人権』って観点」が抜けた報道をしていたら、そのことで叩かれるはずもないだろう。エビデンス云々と言うなら、左派系メディアとやらがこれらを「最もバカにする分野」として扱ってきたことこそ立証してみせるべきだろう。
一方で、これが菅野氏自身のものの見方であるという説には「需要サイドである我々社会も、最もバカにする分野」「自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり」といった、彼自身の発言によるエビデンスがある。重要なのは、これはあくまで菅野氏自身のメンタリティであって、「オッサンのメンタリティ」ではないということだ。菅野氏はオッサンだが、かといってオッサンが彼と同じようなものの見方をしているとは限らない。ごく当たり前のことだ。
とすれば話がかみ合わないのは当然だ。何故なら、こういった問題を以前から気にかけてきた側はこれらを「最もバカにする分野」などと見ているはずがないのだから。
これに関してもそうだ。散々バカにされながらも「日の丸君が代」や体罰の問題を取り上げ続けてきた側はそれをよく覚えているが、いじめを行った側が往々にしてそれを直ぐ忘れてしまうように、バカにしてきた側は直ぐに忘れてしまう。「ここ10年ほど、日本会議が主要な行動フィールドとしているのは、学校現場です。性教育反対しかり、親学しかり、江戸しぐさしかり、そして日の丸君が代しかり。しかし『子供の話』として、これをどこか軽く扱ってるところありませんか?」と。(中略)もしあのまま行ってたら僕は、今頃日本会議のイベントで君が代歌ってるだろう。
つまりここには、菅野氏自身がそうだったように、散々女性や子供の権利を軽んじる見方をしてきた人達が、女性や子供の権利を軽んじる発言を殆どせず、尚且つそれらの権利向上を訴えるような記事を書いてきた人達にミソジニーとレッテルを貼り、攻撃を行っている、という可能性がある。
菅野氏の主張に同意し、彼と一緒になって記者やその者が持つ属性を攻撃している人達は、そういった免罪の可能性は鑑みなかったのだろうか。何しろこの主張の根拠は彼自身の個人的体験と感覚のみだ。そんな理由で罪をきせられ罰を与えられたのではたまったものではない。具体的な名称は出していないものの、これは憶測に基づく私刑の誘導であり、個人の権利の侵害ではないか。
▼(2)自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃
しかしなぜこんな雑な主張が出てきたのか。菅野氏ばりに憶測を働かせてみるなら、そもそも右翼と証する彼が本来なら必要のない左翼・右翼という対立をわざわざねじ込んでいることからして、実は彼の興味の中心は左翼退治であり、そのダシのために女性や子供が持ち出されただけだからではないか、という疑念が頭をもたげる。
戦前において女性や子供の権利が大きく制限されていたということは、少なくとも義務教育を受けた人間なら誰でも知っている常識だろう。育鵬社の教科書が採択されている学校ではどうか知らないが。というより、戦前の日本の秩序の特徴としてまず持ち出されるのがそれだったはずだ。女性には選挙権がないとかね。つまり、「戦前回帰」は女性や子供の権利の制限を内包するわけで、それらを対立軸としておく事自体が誤りだ。「戦前回帰」とかさ、そういう陰謀論みたいな話
そもそも以下の記事にもあるように、『家族条項』を「女だけの問題」にするのは矮小化だろう。「と、考えると、彼らが今改憲議論で、『緊急事態条項』と『家族条項』にこだわる理由もわかるでしょ?緊急時には女子供はすっこんどれと。家族の言うことを聞けと。」と。
憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない(深澤真紀)
「女だけの問題」として見ることはむしろ日本会議を利するだけだ。それは『緊急事態条項』でも同じことだろう。
要するに、「左派」と「陰謀論」という言葉を結び付けたいという欲を押さえられなかったからこそ、そちらをメインに置いているからこそ、こういった明確な瑕疵を持つ理屈を持ち出さざるを得なかったのではないか。
もちろんそれは下衆の勘ぐりである。ただ一つ確かなのは、属性偏重主義を取らなければこういった結論にはならなかったということだ。
***
もし本当に女性や子供の権利が軽んじられることを問題だと思うなら、実際に行われたそういう発言を一つ一つ拾い、それを根拠にその者を批判していけばいいだけだろう。その記者や左派系メディアを批判したければ、実際に彼らが行ったそれを論拠にして批判すればいいだけだ。
そこには妙な憶測など必要なければ、ミソジニー批判、メンタリティ批判などといったものも必要ない。何故なら重要なのはその者の内心ではなく、実際に行われた行為だからだ。幾ら女性を蔑んでいても、実際にそのような行為を表に出さない限りは何ら問題はない。これは内心の自由という基本中の基本だ。「日本会議は小さい。しかし、彼らがレペゼンしてるのは『ニッポンのオッサンのメンタリティ』。国粋主義でも宗教でもない。あなたにもそしてこんな偉そうなことを言ってる僕の中にもあるかもしれないドロドロとしたミソジニーをレペゼンしてるんだから、強いんです」
それ以前に、そもそも他人の自意識なんて誰にも分からないはずだろう。当人ですらよく分からないのだから。それをこうであると決め付け、それを根拠として批判する行為は、端的に言って中傷である。結局のところ、この世に存在するありとあらゆる自意識批判は内容的に、私の魂はあの者達のそれよりも位が高い、というアピールのバリエーションでしかない。それに乗っかることで飴は手に入るかもしれないが、誰かの権利を守るためには全く不要なものだ。
同時に、オッサンとか左派とか、特定の属性でまとめて不特定多数をぶっ叩く必要性もどこにもない。それどころかこういった属性攻撃とは絨毯爆撃に他ならない。それが個人の権利を踏みにじるものでもあることは言うまでもないだろう。
そしてそういった属性偏重主義を貫くが故に個人の権利が軽視され侵害されていくというこういった成り行きは、正に日本会議がこれまでやってきたことと同じではないのか。
実際ここで行われているのは――以前キモオタであることを理由にこんな嫌がらせをされた。その人物は女性という属性を持っていた。別の場所である女性が言及して欲しい問題に言及してくれなかった。それを誰かは男性への差別的意識からだと言っている。やっぱり女性と言うのはそういうものなのか。酷い、オバサンは酷い――みたいなものと全く変わらない。
「自分がいかにクソか、自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり、自分を変えようと、持ち金全部はたいて、カウンセリングに通い、病院に通い、専門家に助けを求めたから、自分のミソジニーを理解できた」らしいが、属性批判から脱することができず、叩く属性を変えただけではそれを克服できたとは言えないだろう。それでは「傷つける」対象を変更しただけだ。
▼(3)飴と鞭を背後に忍ばせた二分法
そもそも問題の根本は、全ての者に等しく与えられるはずの権利が特定の属性を備えていることを理由に制限されてしまう、或いはその権利自体が否定されてしまう、ということのはずだ。それはつまり基本的人権の否定であり、個人の尊重の否定である。
即ち本来ならそれを重んじるか否かの問題が、あたかも特定の属性と属性との対立であるかのように摩り替えられてしまう。それこそがこういった問題をさらに深刻なものにしているのではないか。
なのに何故そこでさらなる対立を再生産しようとするのだろうか。何故属性攻撃に対し、属性攻撃で応じなければならないのだろうか。それは基本的人権は守られるべきだ、という人達を分断してしまうことにもなりかねないのに。
「オッサンのメンタリティ」とここで表現される問題も、その本質は、権限を持った者が自身の趣味趣向に合わせて個々人の権利を制限してしまうことだろう。これは性別に関係なく生じる現象のはずだ。そう考えると、日本会議を支持する女性達は必ずしも自縄自縛でそれをしているとは断定できなくなる。単に自身の趣向に合ったライフスタイルを他人に強要しているだけ、という見方もできるからだ。
もちろん、何故女性支持者がいるのか?という問いに、彼らは名誉男性だから、という答えを見出している人がいるように、「名誉何々」的な枠組みが機能していることも否定はできない。しかしだとすれば、この説に乗っかって女性の側に立つ男性は正にその裏返しとしての名誉女性的性質を持つことによってその場での立場を確保していることになる。
実際オッサンはここで彼の持論に乗っかって名誉女性的振る舞いをしなければ、その者が普段女性や子供の権利問題にどのような態度を取っているかに関係なく叩かれそうな雰囲気だ。
菅野氏のこれなど正に名誉女性の振る舞いそのものではないか。一方、自説に同意しない記者はミソジニーのレッテルを貼られ、見せしめとして叩かれる。僕の講演の最後2分間は、「女子供の話だとバカにした結果、女子供の話を真剣に弄る人らが改憲勢力の首魁になった。だから24条なんですよ!女子供の話だとこれ以上バカにするのをやめましょう」と絶叫して終わる。
そういった恐怖、或いは自身が嫌いな属性を叩くことができるという飴を後ろにチラつかせた二分法で反論を封じ、物事をある方向へと誘導しようとするような手法が効果を発揮するからこそ「名誉何々」問題が生じるわけであり、それを問題とするならこのような手法に乗っかるべきではないだろう。
そしてそれはくしくもあの手の人達が愛国者であるか反日・在日であるかを何らかの選択と紐付けして判定するやり方そのものでもある。
女性や子供の権利を守るにしても、それは女性や子供という属性の力を強めることではなく、属性に囚われない個人の権利を守ることだろう。だが個人の権利を抑圧するこういった手法を肯定し、一般化していくなら、当然別の場所で同じ手法を用いてその権利が抑圧される可能性も高まっていくことになるだろう。
▼(4)基本的人権(個人の尊重)問題の対立化
この説のもっともらしさは「オッサン」を権力を持った存在として捉えているからこそ成り立っているのではないか。だが菅野氏が己のメンタリティを「オッサンのメンタリティ」と摩り替えたように、属性闘争になればそれが底辺の何の権限も持たないオッサンのそれに摩り替えられることになるのは必定だろう。
――突然よく分からない場所に連れて行かれ、帰りは自分でバスで帰ってくださいと言われる。大した説明も受けないまま仕事が始まり、どう考えても一人では捌き切れない量の作業を押し付けられ、捌き切ろうとすると数量確認がおろそかなってバイトのオバちゃんからどやされ、確認作業を重視すると社員から文句を言われる。それがマラソンのように絶え間なく続く。もちろんほぼ最低賃金だ。
「○○君はウチのエースやからな!」と社員からおだてられていた人が、明日仕事があるかないかわからない、人の都合がついたら仕事は無いが、そうでなければ出勤になるので気が休まらない、と愚痴をこぼす。
派遣事務所の女性社員から、○○さん、次の一週間お休みです~。と告げられる。その結果夜勤にもかかわらず月給13万。もちろん、年金や社会保険料は未払いの状態でそれだ。それが一ヶ月おきに続く。そして6ヶ月未満で切られる。なぜならそれ以上勤めると有給が付いてしまうからだ。そしてそうやって辞めて行ったはずの人が、また二ヵ月後くらいに呼び戻されていたりする。
底辺では一ヶ月更新などザラだ。どんな理由があろうと、もし働けなくなったら男も女も平等に切られる。というか向こうの勝手な都合で一ヶ月経ってもいないのに辞めさせられたりもする。もちろん自己都合退職だ。嘘だけど。そして後からやってくる人やってくる人皆何らかの問題を抱えていて一週間ほどで入れ替わっていき、そもそも何故あの人を辞めさせたんだ?一番マシだったのに、ということになったり。
底辺では凄まじい轟音が鳴り響いている現場も多い。一度イヤーマフを付け忘れてしまったが故に、聴力を大幅に失ってしまった、なんてこともある。もちろんそういった現場でも特別な手当などつかない。そもそも底辺のオッサンは年収200万にさえ中々届かない。
――こういう状況に身を置いているオッサンは幾らでもいる。オッサンという属性が持つ神通力などこの程度のものだ。
ここで属性闘争に乗っかっている女性は、そういうオッサンと同じ権利を与えられ、同じような状況へ押し込まれて満足できるのだろうか。或いは今似たような状況であがいている女性の皆さんは、菅野運動によってもたらされる、「女性」或いは「オッサン」に対する「オバサン」という属性への魔法効果を武器にしてそこから這い上がることが出来る自信はあるだろうか。
もちろんそれに乗っかった以上、這い上がれなくてもオッサンと同じ権利が与えられていればそれは自己責任として処理されることになるだろう。
***
問題の属性闘争へのすり替えは、全く新しいものでもなんでもない。近年では貧困問題が世代間闘争へと摩り替えられたのが記憶に新しい。さらに言えば、そもそもこういったものは日本会議に親和性の高そうな人達が以前から重宝してきた手法だったのではないか。先に挙げた知恵袋のページなどはその典型だ。
慰安婦は許されない、女性の人権侵害だとかいうけどさ ... - Yahoo!知恵袋
そして結果行き着くのがこういう場所だ。基本的人権/個人の権利は属性にかかわらず設定される絶対的なものだが、属性と属性の権利の引っ張り合いは相対的なものとなる。そういうものに変質させてしまった以上、必然的に権利の底はなくなる。そしてもっと酷い人もいる、ということでお互いドンドン下へと引っ張り合いすることになる。これこそ属性闘争の醍醐味と言える。よく考えてほしいわ。
行けば(ほぼ)必ず死ぬってわかってる戦場へ行かせられる。
なのに男は何一つ文句も言わずに黙ってた。
今でも死に物狂いで帰ってこれた元兵士も黙ってる。
そのことで
「無慈悲に戦争に行かされた!男の人権侵害だ!!」
なんていうやつが一人でもいたか?!
言ってないだろ?
きっと言いたいことは山ほどあるはずなのに、何一つ文句言わずに今でも我慢してる。
文句言うのは決まって女ばっかり。
またこういった摩り替えは、「権利には義務が伴う」「本当に助けが必要な人とそうでない人」という対立関係に置き換えられることも多い。杉田水脈氏が「保育園落ちた、日本死ね。」をそのような手法で批判しているのは正に象徴的だ。
【杉田水脈のなでしこリポート(8)】「保育園落ちた、日本 ... - 産経ニュース
本来どちらかが重んじられればどちらかが軽んじられるようなものではないはずの問題を属性や条件で分断し、対立化させてしまうとこういうことになるのは必然と言える。「保育園落ちた」ということは「あなたよりも必要度の高い人がいた」というだけのこと。言い換えれば「あなたは必要度が低いので自分で何とかしなさい」ということなのです。(中略)この問題が起きた直後に山田宏前衆議院議員が「生んだのはあなたでしょう、親の責任でしょ、と言いたい」と発言しました。私はもっともな発言だと思った
『家族条項』に関しても、その本質は女性の権利がどうこうというより、個人の権利の制限や政府の責任放棄が目的だろう。
つまり重要なのは属性に伴う権利ではなく、全ての者に無条件に適用される、個々人に応じた権利であり、そのためには属性や条件による対立は極力避けねばならない。ところがあの記事ではひたすら対立が煽られている。
***
それに加え、普段ヘイトスピーチはいけない、と言っていた人達からこういった属性批判への批判が出てこないのも妙な話だ。対象とされている属性がマイノリティではないからだろうか。しかしならばそれはマイノリティでない人達と対立することを意味する。そしてそのような枠組みでマイノリティが何らかの権利を得たとしても、それは属性に左右されない共通ルールに基づいたものではなく、対立する多数派属性の温情によってもたらされたもの、という性質も漏れなく付いてくることになるが、それでいいのだろうか。
▼(5)強さの理由
基本的人権/個人の尊重の問題を対立化させて分断。自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃。それらによる恐怖と飴を後ろに備えた二分法を用い、憶測を根拠とした私刑へと誘導する。
あの記事はそういった多くの問題を抱えている。しかしそういった内容を持つ菅野氏の記事に寄せられたのは、絶え間ない賞賛と喝采の荒らしだった。属性偏重主義に個人の権利は飲み込まれ、免罪や私刑への懸念も消し飛んでしまった。普段はそれらを非常に重んじているはずのコミュニティでさえ。
既に述べたように、こういった手法は日本会議周辺においても重宝されてきたものだろう。そういったことから鑑みるに、日本会議の強さとはミソジニーなどではなく、むしろこういった仕組みにこそあるのではないか。
よく考えてみれば、日本に限らず近年大きな求心力を得た人達は皆こういう手法を巧みに用いていたのではないか。
つまり、同じような構造を持ったシステムが、別の文化圏では中身だけが入れ替わって首尾よく機能していた。そして今回菅野氏の記事に起こったのと同じような熱狂が別の場所でも起こり続けている。そういう話なのではないか。
そう考えると日本会議が急に身近な存在に感じられてくるのではないか。少なくともオッサンの自意識に潜むミソジニーによる陰謀、というパラサイト・イヴみたいな話よりもずっと明快だろう。何より実際にそれらの手法が用いられているか否か外部から確認可能なわけだから。
***
「基本的人権」や「個人の尊重」という言葉が鼻で笑われるような社会において、手っ取り早く世の中を変えることができそうなこの手の対立構造が変化を望む人達にウケるのは理解できなくはない。
とはいえ、それはこれまでもずっと行われてきたことであり、そういった対立構造における争いの上に現状があると考えるのが妥当だろう。そしてそれが機能すればするほど、その性質上、その分だけ個人の権利もまた抑圧されることになる。
結局、基本的人権や個人の尊重の問題において、こうすれば劇的に改善する、というような特効薬はない。しかしながら、それを抑圧している自意識批判や属性批判といった性質の悪い手法を真面目な議論から追い出すことは可能なはずだ。
そういったレッテル貼りに頼らずちゃんと論拠を挙げて何かを述べるということは、当たり前のようでいてわりと難しい。それ故それらはそういう技能を持たない者達にも発言権を確保するという、言論のバリアフリーとしての側面も持っている。とはいえそれは、こういった手法を今のように野放図にのさばらせておく理由にはならないだろう。
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